製造加工業

いつの間にか消え去った「クイックレスポンス対応」という概念
2025年1月28日 製造加工業 1
一時期は盛んに言われながらも、いつの間にか忘れ去られてしまっている事物というのが世の中にはある。 繊維・衣料品業界にもさまざまあるが、QR対応もその一つだろう。 現在、QRというとほとんどの人がQRコードを思い浮かべる。しかし、QRコードが世間に普及する前はQRと言えば、繊維業界人なら「クイックレスポンス」と答えるのが一般的だった。 90年代後半くらいに唱え

JIAM2024に行って最新型ミシンや刺しゅう機などを見てきたという話
2024年12月2日 製造加工業 1
久しぶりにJIAMを見に行ってきた。 正式には「JIAM2024 OSAKA 国際アパレル&ノンアパレル生産技術見本市」である。縫製・刺しゅう・自動裁断・インクジェットプリンターなどの機械類の展示見本市で、主な出展業者はそれらの機械メーカーである。 これまで原則として4年に一回開催していたが、たしか2020年の開催はコロナ禍のために延期となり、前回は

生地工場だけが残っても国内産地で生地は製造できないという話
2024年11月5日 製造加工業 0
一般的に「繊維の国内産地」といえば、織り・編みともに「生地工場」がクローズアップされる。断続的に8年間ファッション専門学校で非常勤講師をさせてもらった経験で言うと、ほとんどの生徒は「産地=生地工場」というイメージしか持っていない。 この傾向は恐らく、一般・業界向け問わずメディアでもほぼ同じではないかと思う。かく言う当方とて、業界紙記者時代は産地

OEM生産と韓国&中国からの買い付け品で成り立っているオリジナルブランドは結構多いという話
2024年8月6日 製造加工業 0
このところ、50代後半から60代前半の業界オジサンが、老親の介護のためにUターンしてくるパターンが多く「Uターンしてきたから、大阪で酒でも飲みましょう」とお誘いいただくことが増えた。 コロナ禍もあって5年ぶりとか6年ぶりにお会いする方も多く、なかなか懐かしい。中には20年ぶりくらいにお会いする片もいて、驚くばかりである。 そんなUターンされた人の中に、OEM

ラグジュアリーブランドの生産体制も決して身綺麗ではないという話
2024年7月12日 製造加工業 2
普段、低価格ブランドが製造コストや下請け工場の待遇について槍玉にあがることが多いが、ラグジュアリーブランドがこの手の報道をされることはあまりない。 あまりないが、今回は珍しく報道されたのでご紹介したい。 40万円のバッグを作るのにディオールはいくら払っていたか…イタリア当局が搾取的な製造業者を捜査 | Business Insider Japan ミラノの検

国産衣料品はゼロになることはないが大幅に増えることは決してないだろうという話
2024年6月27日 製造加工業 2
2023年の衣料品の国産比率が1・5%で前年据え置きとなった。 要するに国内で流通している衣料品の98・5%は海外生産品で22年と横ばいだったという話である。 衣料品の国産比率「1.5%」 2023年も生産縮小に歯止めかからず 2023年に日本で供給された衣料品のうち国産品が占める数量の割合は1.5%だった。過去最低だった前年実績と同じだった。

価格が高いことと着心地が良いことは必ずしも一致しないという話
2024年4月22日 製造加工業 0
個人的な洋服の評価基準だが、似合うか似合わないかという点は除外して 1、着ていて楽なこと 2、少々雑に扱っても破損しにくいこと 3、防水や吸水速乾の機能性があること 4、洗濯機を使った家庭洗濯できること あたりである。 一つずつ補足していくと、まず1だが、2000年代のようなピチピチピタピタはやっぱりしんどいのでもう2度と着用したくない。あと、昔ながらの製法

身近な物でも本当に理解できている物は少ないという話
2024年4月17日 製造加工業 0
生地というのは一見しただけでは何がどうすごいのかがわかりにくいと感じる。 もちろん、当方が鈍感であることは認めるが、一見しただけでは「普通」に見えることが多く、いろいろと解説を聞いて初めて「なるほど、それはすごい技術だ」と感心してしまうということがある。 先日、御厚意でセーレンさんの展示会を覗かせてもらった。 セーレン株式会社 (seiren.com) 業界

アパレル向けODM業界も生き残り競争が年々激化しているという話
2024年4月10日 製造加工業 0
90年代にちょっとしたデザイナーズブームがあった。 東京、大阪で独立を果たした個人デザイナーが相次いでデビューした。 しかし、実際に自身のブランドだけで生計を立てている人は少なく、多くのデザイナーはアパレル企業からの外注デザインを請け負うことで生計を立てていた。 当方が業界紙記者になったのは97年のこと。その当時もまだ余波は残っていて、実際に独立したばかりと