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南充浩 オフィシャルブログ

繊維業界紙の興亡

2021年1月18日 企業研究 2

一般的に繊維・アパレル業界が厳しくなったのは、90年代後半からと認識されている場合が多い。

バブル期に大学生時代を過ごした当方も振り返ってみると、バブル崩壊当時の91年はさほど不景気ではなかった。学生の身なので企業活動の雰囲気などは分からないが、バイト先を探すことに困るという状態ではなかったし、92年入社の就職先もさほど困っている雰囲気はなかった。

 

95年に阪神大震災があり、オウム真理教のテロもあり、世の中の雰囲気が暗転したが、当時販売員として働いていた小売りチェーン店は出店ラッシュで、たしかに90年と比べると服は売れにくくなっていたが、他方でビンテージジーンズブームも起きており、業界全体が売れにくいというよりは、売れ筋商品が変化したという印象しかなかった。

 

以前に採りあげた繊研新聞の記事でも「百貨店婦人服の売上高のピークは97年だった」と書かれており、97年になるとだいぶと雰囲気は暗かったが、バーバリーブルーレーベルがブームになることを考えると、高い服でもそこそこ売れたといえ、2021年から考えれば夢のような世界だったといえる。ただし、就職氷河期は起きていた。

 

今回は何が言いたいのかというと、実は繊維・アパレル業界はバブル崩壊以前にすでに苦境に転じていたのではないか、正確にいうとその傾向が強まっており顕在化していなかっただけではないのか、ということである。

 

それぞれの業界には業界メディアという物がある。

これについては賛否両論あるが、個人的には業界紙記者だったこともあり、肯定的に捉えている。もちろん、メディア間での格差はあるし、質もピンキリだということは事実だが、そこを含めても肯定的に捉えている。

 

当方は97年に業界紙に入社した。

今から思い返してみると、すでにこの97年当時には、繊維業界紙の多くが経営が極度に悪化していた。

繊維業界での日刊紙(月~土発行)はこの当時、3紙あった。

繊研新聞、日本繊維新聞、繊維ニュースである。

このうち、日本繊維新聞と繊維ニュースは、すでに90年代前半に経営が悪化しており、当時を体験した人に聞くと、92年頃に労働争議や待遇引き下げなどが相次いだという。

この3紙に次いだのは、日刊紙ではないがセンイジヤァナルという新聞もあり、こちらも同様に90年代前半には経営が悪化しており、社員の待遇は引き下げられていた。

4紙あるうち、97年当時にはすでに3紙が経営が悪化していたということである。

この当時は繊研新聞の一人勝ち状態で、労働組合からの報告を聞いていても、繊研新聞社の社員の待遇は他の3紙から比べるとはるかに良かった。

 

この当時、繊研新聞の一人勝ちだったことの要因は様々あるだろうが、業界紙内で言われていたことは、

「アパレル関連と百貨店に無類の強さがあるから、広告が集まりやすい」

ということだった。

他の3紙は繊研新聞ほどアパレルと百貨店には強くなかった。

 

そして、2010年には日本繊維新聞とセンイジヤァナルが倒産した。

97年以降の印象でいうと、日本繊維新聞は繊研新聞の規模を小さくしたような感じで一応アパレルもそれなりには強かったが、紙面の性質も似ていたので規模の大小で勝ち目はないなと感じていた。

繊維ニュースは、紡績や織布工場、タオルなどに強く、センイジヤァナルは肌着・靴下などのニットに強かった。

 

まだバブル崩壊の余波が少なかった90年年代前半に経営が悪化したのがこの3紙だが、繊維ニュースとセンイジヤァナルは得意分野の違いはあっても、繊維の国内製造加工業を主戦場としていた。

それゆえ、すでに80年代後半には国内の繊維製造業者は経営が悪化していた、もしくは悪化の兆しがあったということだろう。

 

黒木亮さんのノンフィクション風小説「アパレル興亡」にも出てくるが、繊維製造業のピークはガチャマンと呼ばれた1950年頃で、85年のプラザ合意で完全にとどめを刺されたとされている。

繊維の製造加工業者が85年以降、目に見えて衰退していったこととは反対に、80年代後半にアパレル業界はDCブームとなり、過去最高の繁栄となる。

繊研新聞は一早く、アパレル業界・百貨店に取り組んでいたため、85年以降は他の製造業系の2紙が苦戦に転じたのとは対照的に、どんどん業績を伸ばしていった。

 

日本繊維新聞はどうして没落したのかは90年代前半を体験していない当方は知る由もないが、似たような新聞は2紙要らないということだったのだろうか。

 

製造業系の2紙の人たちから聞くと、ガチャマン景気が去った60年代、70年代も2紙ともに経営状態はかなり良かったそうだ。

 

2021年から振り返ってみると、85年のプラザ合意で国内の繊維製造加工業は引導を渡されてしまったといえ、ファッション分野への波及は当時は少なかったが、大局的に見ると、何十年か遅れて波及することは必然だったといえるのではないかと思う。

2008年のリーマン・ショック以降、ファッション分野も停滞の様相が強まってきて、2008年以降は、それまでのような「大きなファッションブーム」というのはほとんど起きないようになってしまった。

ビンテージジーンズブーム、109ブーム、裏原宿ブーム、アムラーブーム、神戸エレガンスブーム、インポートジーンズブームなどのような「大きなブーム」というのは2008年以降ほとんどないし、百貨店はあの体たらくである。

紆余曲折はあるものの、ユニクロとジーユーを擁するファーストリテイリングの一人勝ち状態といえる。

 

こうなると、「アパレルに強い」「百貨店に強い」と言われた繊研新聞の経営も暗転してしまう。2008年以降は、90年代後半に比べると格段に厳しくなっていると聞く。

今後の世情を考えると、2005年ごろまでのように大きなファッションブームが起きるとは考えにくいし、百貨店というチャネルが90年代の売り上げ規模を回復するとも考えにくい。

 

プラザ合意当時に今のような状態になることまでを想像することはほぼ不可能だったと思うが、振り返ってみると製造加工業だけでなく、ファッション分野も遅れて苦戦に転じることは、当然の帰結だったのかもしれないと、思ってしまう。

 

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 comment
  • 落ちぶれバイヤー より: 2021/01/18(月) 11:03 AM

    97年は団塊ジュニアが27から22歳と可処分所得がもっとも高い時期でしたからね。まだeコマースも、ファッションビルも弱かったので、百貨店が婦人服2フロアから3フロアに広げ、月坪100万売ってました。赤文字系雑誌に掲載した商品は各百貨店取り合いでしたね。

  • たまも より: 2021/01/18(月) 12:59 PM

    「繊維ニュース」を十数年来購読しています。
    早い時点で苦しくなったと思いますが、産業資材・不織布・ユニフォームに強い媒体なので、ここに来ての落ち込みは小さいかも知れません。

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