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南充浩 オフィシャルブログ

日常生活に使われることの必要性

2019年12月11日 産地 0

1年半くらい前から老衰の激しかった父に、昨日ちょっと重病が発見された。金曜日に検査の結果を聞くのだが、きっとかなり悪い。

好むと好まざるとにかかわらず、年年歳歳、環境は変わる。ほとんど変わらない年もあれば、急に大きく変わってしまう年もあるが、不変であるということはない。

何年間かは不変に見えても、我々の肉体はその分着実にわずかずつではあるが老化して衰えている。

 

今にして思えば、10年前のまま、20年前のままで環境が何も変わらなければよかったのになあと思うこともあるが、そんなことは実現不可能であり、生きている間は誰もが、その変わりゆく環境に対処するほかない。

 

 

従来のままで物事を残したいと思う人は多い。

しかし、環境や生活様式が変わると、利用されなくなる物は多く、利用されなくなった物は作られなくなる。いくら素晴らしい技術だとか伝統の重みだとか言ったところで、使われない物を作り続けることは通常の企業は不可能である。

例えば草鞋なんて今は誰も履かない。自宅内でスリッパ代わりに履く人はいるかもしれないが、あれで外出する人はいない。

以前、どこかのライターが草鞋でどこまで歩けるかという実験記事をウェブで上げておられたが、クッション性のなさからとても長距離は歩けなかったという結果になった。

今のクッション性の良い靴に慣れてしまった現代人の足に草鞋で何キロも歩くことは不可能だということである。

「草鞋文化を守れー」とか言う人が仮にいるとするなら、非常にナンセンスで、あんなクッション性の悪い履き物を今更、外出用として常用する人はいない。

逆に靴のクッション性はどんどん良くなっており、メンズの革靴でさえ、どんどんと履き心地やクッション性はスニーカーに近づいている。アシックス商事のテクシーリュクスなんてその一例だろう。

 

先日、近畿大学経営学部の山縣正幸教授のミニトークショーを拝聴した。伝統工芸についての研究をなさっているのだが、冒頭に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」について言及された。

第二条の一に

主として日常生活の用に供されるものであること。

と記されてある。

 

この法律は昭和49年にできたようなので、その当時の「日常生活」というのは2019年と変わらない部分も多くあるが、違っている部分もある。そのため、2019年の日常生活にそのまま当てはまらない部分もあるのではないかと思う。

とはいえ、時間の経過は止まらないから、昭和49年の基準よりも2019年、2020年の基準を重視すべきだろう。

 

フリーランスになってSNSを通じて随分と和装系の人、伝統工芸系の方ともお知り合いになった。そのため、その手の書き込みやブログ、意見もよく目にするようになった。

伝統工芸系の方の中には、古き良き技法は何が何でも残すべきだと主張される方が少なくないと当方には見える。その気持ちはわからなくはないが、使われなくなった物を作り続けられる企業は存在しないし、作り続ける必要があるのだろうかと思う。

伝統工芸の法律だって「日常生活の用に供されるもの」と第一に規定している。

 

草鞋同様に、日常生活の用に供されなくなれば、存在・存続させる理由はないと当方は考えている。もちろん、資料として技法やその物を残すことは大いにやればいいと思うが、無理やりに商品を作ることは赤字と在庫を増やすだけでしかない。

山縣さんは、トークショーの中で

 

「伝統の技法を用いて現代の日常生活に適した商品を開発し、その資金で伝統の技法を残すというやり方が良いのではないか」

 

と提案しておられたが、当方はその通りだと思う。

 

例えば、昔ながらの無地黒塗りの味噌汁椀が伝統技法で作られていたとして、それが3000円くらいなら、そこそこに買う人もまだいるだろうが、これが3万円とか30万円するなら、どれほどの人が買うだろうか。

むろんゼロではないが、10人とか15人程度の顧客で、その工房や職人が1年間食べて行けるだけの売上高が稼げるはずもない。

だったら、商品のデザインや商品そのものを現代の日常生活に適した形にリデザインすべきだと思う。もしくはその技法のいくつかの工程だけを用いてコストダウンすることも必要ではないかと思う。

そうすることで売上高を稼ぎ、その資金を持って昔ながらの味噌汁椀を細々と継承するのがベストプランだといえる。

 

しかし、「古き良き物をそのままの形で高額で買ってくれ。買ってくれない消費者が間違っている」というような主張を見かけることがある(当方にはそのように見える)が、それはいかがなものかと思う。

実際に使い道がほぼない物を伝統だから買ってくれというのは作り手側の押し付けでしかない。

これは洋装関係でも同様で、今の嗜好に合わない物をいくら「古き良き云々」とか「本物のナンタラ」と言ったところで、使いにくい・使い方がわかりにくいなら、そんな商品は売れない。

押し売りするのは作り手側、供給側のエゴでしかない。

世の中なんて、「エゴとエゴのシーソーゲーム♪」かもしれないが、欲しくない物を押し付けたところでますます敬遠されるだけの話である。

伝統の技法こそ、売れそうな新しい商品に挑戦して、後世に残すべきではないか。

墨守するだけではジリ貧になるだけである。

 

 

そんなシーソーゲームのストリーミングをどうぞ~

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