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南充浩 オフィシャルブログ

既製服を「作品」と呼ぶナンセンスさ

2019年4月23日 デザイナー 0

今日でめでたく49歳になってしまったわけだが、我ながらジジイになったと思う。
節分に、「数え年+1」個の数の豆を食べることが苦痛になって随分と経つ。何せ豆つぶを50個前後も食べるのは苦痛でしかない。
毎年、節分が来るたびに年齢を痛感する。
大したこともないままにジジイになっており、こういうのを「馬齢」というのだろう。
で、当方よりも上の老人層のファッション業界人には、「ファッションは楽しい」とか「感性」とか、そういうことだけを強調する人が多い。
例えば、これなんか典型ではないかと思う。
 
https://www.wwdjapan.com/727357

皆、“感情”を忘れ、”勘定”ばかりを気にする。だから、ブランドが提供するのもいつしか“作品”から、“製品”に変わり、ファッション業界をつまらなくしている。インフラが普及したおかげで、電話とネットだけで商品を買い付け、それを届ける環境が整った。だが、果たしてそれで、心の通った商品は届けられるのか?
(Vol.1603 2010年10月25日)

 
WWDの「THE WORDS」という企画で、業界の有名人の名言?を取り上げるコーナーである。正直にいうと、このコーナーはあまり意味があるとは思えないし、好きではない。
各人のインタビューの中から一節だけを取り出して、いかにも名言みたいに掲載している過ぎない。インタビューの中でどのような流れでその一節が出たのか、前後の関係がまるでわからない。下手をすると正反対の意味で出てきた可能性もある。
今回引用した一節もどのような流れで出てきたのかはわからない。そして時期も比較的最近とはいえず、9年も前の言葉である。
 
しかし、個人的にはこのような考え方がこれまで国内のアパレル業界を席捲してきた結果が今の惨憺たる状況ではないかと思う。
勘定よりも感情優先、量産品の工業製品たる既製服を「作品」と呼ぶ勘違い、これがバブル経済崩壊までのアパレル業界だったといえる。
数値分析も計数(係数)管理も在庫管理できておらず、勘と度胸とどんぶり勘定の「KDD」がまかり通っていた。だから、バブル崩壊後、97年の金融危機を経て、かつての大手アパレルは軒並み凋落してしまった。
商品企画は個人の「センス」と感情任せ。
そんなものが何度も売れるはずがない。一度や二度は売れる商品を企画できるかもしれないが、何年も続けて「センス」と「感情」だけで売れる商品を企画し続けることはできない。稀にできる人がいるが、それはまさしく文字通りの天才で、そんな天才は世の中に何人もいない。
もちろん、感情も大事だが、旧アパレル業界はそこに偏重しすぎていた。
その弊害をモロに被って、未だに軌道修正できていないのが、各ファッション専門学校である。アパレル企業からのデザイナー、パタンナーの求人は激減しているにもかかわらず、いまだに学校の看板学部は「デザイン学部」や「デザイン学科」である。
デザイン画と言いながら、旧態依然としたファッションイラストを教える講師も多いし、できるに越したことはないが、ソーイング(縫製)の授業を必要以上に重視している。縫製工場の工員や縫製職人を養成するなら別だが、そうでないならソーイングを異様に重視する必要はない。
 
そして何よりも既製服を販売しているサンモトヤマの創業者が「商品」ではなく「作品」と言っている点にものすごく違和感を感じる。いや違和感しか覚えない。
衣料品において「作品」というのはオートクチュールやフルオーダー、ファッションショー用に制作した一点物のみを指すと思っている。
既製服は工業製品でありあくまでも「商品」「製品」と呼ぶべきだろう。
 
サンモトヤマの公式サイトを開いてみると、現在は随分と自社オリジナル既製服が増えているようだ。これなんかは明らかに工業用のミニマムロットをクリアして製造されているだろうから、どう見ても「商品」か「製品」である。
またWikipediaだと、
 

1962年にグッチと日本の総代理店契約を結び、続いてエルメス、ロエベ、サルヴァトーレ・フェラガモといったブランドを日本に紹介した。
 

とあるが、これらも到底「作品」というほどの一点物や少数生産ではなかっただろう。
 
もちろん、個人の主観だからそういう考え方があっても構わないが、これが業界の定説になることが弊害だと当方は考えていて、2000年頃までの業界はとくに年配層にこういう考え方が支配的であって、各ファッション専門学校は早くからその考えに影響を受け、軌道修正できないままに今に至っている。
よほど特殊なブランドを除いては、アパレル企業も専門学校もこの手の思想から脱却すべきであると当方は考えている。
 
「作品」や「感情」というと、アーティスト(芸術家)を当方はイメージしてしまうが、そういう言葉を好むアパレル業界人は芸術家志望が多かったのだろうか?
しかし、衣料品は絵や彫刻などと違って、「着用する」という機能性が求められる。以前にもこのブログで紹介したが「デザインはアートではない」ので、衣料品の場合は「着用できる」という機能性は最低限求めらる。
藤本貴之さん著の「だからデザイナーは炎上する」(中公新書)には
 

「デザインとアートを分かつ最大にして唯一の条件、それは『客観性の有無』であるといわれている。アートは制作者の主観的な表現のみで作られることがゆるされたものであり、客観的な説明や合理性を必要としない。(中略)ではデザインはどうだろうか。それが何であれ、デザインにおいては、具体的な目的や機能を持って設計しないとならない。となれば、客観的な説明可能性や、その存在の合理的な根拠が必要になるのも至極当然である」
 

という一節がある。
 
単なる既製服を御大層に「作品」と呼び続け、「勘定」よりも「感情」を重視し続ければ、衣料品業界は、今後ますます斜陽産業と呼ばれるようになるだろう。
 
 
 
藤本貴之さんの「だからデザイナーは炎上する」をどうぞ~

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