誰が百貨店を殺すのか
閉店続き、市場規模36年ぶり6兆円割れ
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/NBD/15/depth/072400684/


この記事が日経ビジネスオンラインに掲載された。
オンラインはダイジェスト版で、こちらは誌面に掲載されたそのままである。

タイトルのつけ方は何とかの一つ覚えとしか言いようがなく実態を反映していないといえる。アパレルは「殺された」側面があるが、百貨店は記事中にもあるように、小売りの王様だった60年代・70年代にその優越性から、納入メーカーにリスクを押し付け、今に至るわけだから「殺された」というのは当てはまらず、「自死した」というべきであろう。


この記事は全般的によく考察されていると思うが、百貨店の売上高低下についての根本的な部分を見逃しているように感じる。
貧富の格差が拡大して、高額な百貨店衣料品を買えなくなった人が増えたということは前提にあるにしても、ファッション衣料と日常衣料が限りなく近接したことによって、「百貨店で服を買う」ことの意味が薄れていることを認識した書き方ではないと感じる。

例えば、記事中では

60年代は「百貨店で既製服を買う、という行為が時代の最先端だった」と、アパレルの歴史に詳しいウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッションの尾原蓉子会長は指摘する。ファッションも今とは全く異質の輝きを放っていたのだが、百貨店はアパレル業界との「なれ合い」の中で、いつしかその輝きを失ったのだ。

とあるが、この認識は書き手も尾原氏も甘いのではないか。

60年代までは既製服そのものがほとんどなかった時代で、多くの場合は家庭で縫われていた。
当方の母親も70年代はまだ洋裁というものをやっていて、自分で洋服を縫っていた。
当時の雑誌には型紙が付録として付けられていた。

存在しなかった商品が供給されたのだから、消費者がそれに飛びつくのは当たり前で、初期のビデオデッキや初期の液晶テレビ、初期のiPhoneなどが飛ぶように売れたのと同じ理由だ。

また、初期商品が高額だということも家電製品や自動車と変わらない。
当然、60年代の既製服はそれなりに高額で、低価格衣料品は生まれていなかった。どうしても節約したい人は70年代が終わるころまでは、当方の母親のように自宅で縫っていた。

「百貨店で買うことが時代の最先端だった」のではなく、これまでに存在しなかった商品が百貨店に大量供給されたから、百貨店へ買いに行っただけのことである。
たしかに最先端だった部分はあるだろう。それ以外の商業施設がほとんどなかったのだから。
ここを記者も尾原氏も事実誤認しているのではないか。

一方、かつての百貨店は「大衆に受けそう」なものなら何でも飛びついて、導入するのが早かった。
昔、にぎわった大食堂も屋上の遊園地もその一例だろう。
これは記事が指摘する通りである。
それがいつの間にか過度な名門意識を持ち始め、プライドだけが高いガチガチの保守組織に変貌してしまった。

実際に百貨店での催事で売り場に立っていると、意味のない名門意識を持ち、プライドだけがやたら高く、保守意識で固まった社員が数多くいることを身をもって体験できる。
あんな社員ばかりなら、そりゃ業績が低迷しても仕方がない。

マスコミの多くは百貨店について割合に同情的な報道が多い。
例えば、この記事の「殺された」という表現にしてもそうだ。
逆に百貨店で買い物をしない(できない)人は年々増えており、今の20代・10代の多くは百貨店に行ったことさえない。
30代・40代にしても百貨店に行かなくなった人は多いのではないか。

当方は47歳にしてカネなしなので、百貨店で買い物をすることは10年位前からなくなった。
2007年ごろから百貨店で洋服は買っていない。

しかし、大手メディアにいる社員の多くは、いまだに百貨店で服を買っている。
彼らの収入の良さがうかがいしれるが、この格差が、百貨店報道のピントをズレさせているのではないかと思う。
大手メディアは二言目には「民意」とか「国民の声」とか「庶民感覚」いうが、それらからもっとも乖離した場所にいるのが大手メディアの社員である。

当方がやり取りしている経済誌の30代・20代の記者だっていまだに百貨店で洋服を買っている。
また、当方が様々なことを教えていただいた業界の先輩が付き合っておられる経済各誌の30代記者も百貨店で洋服を買っているという。
大手新聞社・大手テレビ局の社員も同様だろう。

彼らにとっては百貨店は「親しみのある場所」なのであり、今の40代以下の消費者の多くが百貨店離れしているのとは正反対といえる。

それにしても、百貨店が「ファッション」にこだわっているうちは、百貨店の売上高が回復することなんてありえないだろう。
先ほどの話に戻るが、既製服そのものがなかった60年代とは時代が異なる。70年代・80年代もまだその延長線上で服は売れた。
それぞれが洋服を持っていなかったからだ。しかし、今の消費者はそれぞれが膨大なタンス在庫を抱えている。
よほどの「何か」がなければ洋服なんて買う必要がないのである。

また、洋服の歴史がなかったころと、さまざまなテイスト別・ジャンル別・スタイル別でのすみわけが出来上がった現在とでは、洋服の売れ行きが異なるのは当然で、以前のような活況ぶりが戻る可能性があると考えるのはアホとしか言いようがない。

セクシー系、アメカジ系、ナチュラル系、原宿系などさまざまなスタイル別に住みわけがなされており、2000年までのように、全員がビッグトレンドに飛びつくような事態は今後絶対に起きない。

そこを理解しない限り、売れる洋服は作れないだろうし、百貨店の凋落の原因は報道できないだろう。

あと、横道にそれるが、相変わらずルミネの社長はピントのズレたことを言っていると思う。

バーゲンの前倒し傾向について

「売るプロが努力を放棄して、商品を作ってくれる人たちに申し訳ないと思わないのか」。駅のファッションビルを運営するルミネの新井良亮会長は憤る。

と記事中にあるが、そういうルミネそのものが、ウェブで先行値引き販売を行っている。定価で売る努力をいち早く放棄しているのはルミネ自身ではないか。何を言っているのか。


それに「作ってくれる人たちに申し訳ない」という人情論もまったく賛同も共感もできない。
作っている人はあくまでも「仕事」として作っているのであってボランティアでも人道的活動でも奉仕でもない。経済活動の一環である。
だったら、販売員だって「売ってくれる人」である。

「売ってくれる人に対して、こんな売れなさそうな商品を作って申し訳ないと思わないのか?」と言わねばならない。

当方が大好きな韓非子にはこうある。

王良が馬を愛し、越王勾践が民を愛したのは、民を戦に駆り立てたり馬を速く駆けさせるためである。医者が人の傷口を吸い、血を口に含むのは肉親の情愛ではなく、利益が得られるからである。

車作りの職人が車を作ると、人々が富貴になることを望み、棺桶職人が棺桶を作ると、人々が早く死ぬことを望む。これは車を作る職人が善人で、棺桶職人が悪人だということではない。

人々が富貴にならなければ車は売れないし、人々が死ななければ棺桶が買われることはない。人が憎いわけではない。人の死によって利益が得られるからである。

単なる経済活動、仕事である作り手に対して、「作ってくれる人」と言っている時点で、ルミネ社長の認識は2000年前の韓非子に遠く及ばないということがわかる。


庶民感覚から大きく乖離したメディアが同情的に報道しているうちは、百貨店が回復することもないだろうし、百貨店の委託販売体質が改革されることもないだろう。

百貨店は「殺される」のではなく、「自死している」としか言いようがない。


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