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南充浩 オフィシャルブログ

日本繊維新聞の思い出

2010年11月4日 未分類 0

 日本繊維新聞が11月1日で資金ショートに陥り、営業を停止した。
元業界紙記者としては、ついに来るべき時が来たと感じている。

今回は、元同業他紙の記者として日本繊維新聞の思い出などを振り返ってみたい。

報道によると1943年創刊で、元衆議院議長の星島二郎氏が初代社長を務めたという。
今でこそ、業界紙は繊研新聞が独り勝ちだが、古くは日本繊維新聞の方が優勢だった。ちなみに紡績のガチャマン時代には繊維ニュースが繊研新聞よりも社員の給料が高かった時代もあるという。企業の栄枯盛衰は実に儚い。

日本繊維新聞は一般に「名門」と評される。その理由の一つに日本新聞協会の会員であることが挙げられる。日本新聞協会のHPで加盟企業を確認していただければわかるが、一般紙とテレビ局のほか、一部業界紙が加盟している。
自分が聞いたところによると、業界紙は「1業界につき1社」だけ登録できるきまりだという。
で、繊維業界からは日本繊維新聞が登録している。いわば昔は、繊維業界を代表する業界紙であったということになる。

繊研新聞が独り勝ちとはいえ、現在も日本新聞協会には加盟できていない。
ここに日本繊維新聞が「名門」と言われる所以があるのではないだろうか。

自分が繊維ニュースに入社したのは1997年。
残念ながら日本繊維新聞の全盛期は知らない。97年当時にはすでに没落した「名門」だった。
今回の日本繊維新聞の営業停止を「突然死」みたいだと評する方もいる。しかし、内情は「突然死」ではない。90年代前半にはすでに経営が悪化しており、かなり危ない状態にまで追い詰められていたという。その際、何人ものベテラン記者が退職しており、当時の繊維ニュースにも幾人か日本繊維新聞出身の先輩記者がおられた。

OB記者によると、日本繊維新聞は90年代前半の経営危機を紡績や原料メーカー各社からの資金援助で乗り切ったらしい。しかし、15年が経過して紡績各社も経営が悪化しており、とても他社を援助するゆとりもない。合繊メーカーは、繊維部門の比率を縮小しており、もはや一繊維業界紙がどうなろうと興味の対象外である。二度目の援助は期待できない状況にあった。

そしてついに2010年に幕を下ろした。

90年代前半以降の日本繊維新聞の軌跡は、業界紙が今のままでは立ちいかなくなることの例示である。繊研新聞、繊維ニュースともにこれまでの業界紙的発想を一新しないと10年後も企業が存続している保証はない。

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